おでかけホリック

お散歩、バス旅、くるま旅、時には電車旅、おでかけの覚書きです。

平安京の跡地って、今どうなってるん?(朝堂院編)

千本丸太町の交差点の北東角奥にある児童公園に大きな石碑が立っています。

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この辺りに、平安京大極殿があったと書いてあります。ほほう、ということは、この辺りが大内裏だったに違いない。

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この長方形が二つ重なっている図形懐かしくないですか?( ´ ▽ ` )。歴史の時間に何度も見ましたよね。これは都の範囲図です。小さい方の長方形が大内裏と呼ばれるところで、政治の中心地であり天皇陛下のお住まいのある場所でした。凹の方が、庶民の住む所。

 

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今回は、大内裏の跡地をウロウロ歩いてきました。(大内裏内部図は、とっても省略しています。私が見に行ってきた所だけ書いてます。)

ではまずは朝堂院(大内裏内部図の濃い青の所)から。朝堂院は、官吏が国事を執務し、天子が決済するための官庁だったとのこと。大極殿、朝堂、朝集殿という建物から成っていたそうです。

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ここは、千本丸太町の交差点です。ここいらに大極殿があったと言われています。大内裏内部図の赤い所です。至って普通の京都市の交差点ですね。

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大極殿ってどんなんかな〜というと、上の写真の建物が平安京大極殿の復元です。平安神宮の本殿です。明治28年に平安遷都1100年を記念して、大内裏の一部を復元したということです。八分の五のスケールできています。

 

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ここは、千本丸太町を真っ直ぐ南に下がった所です。この辺りに応天門があったそうです。

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で、これが応天門の復元。平安神宮の門です。6月に見にいったので、茅の輪がかけてありますね。くぐりましょう!厄除け厄除け(^^)/

 

で、応天門から少し下がったところにあった朱雀門の建っていたと思われる場所の現在です。こちらは残念ながら復元はありません。

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復元が無いので、朱雀門の跡地を示す石碑を載せておきます。この辺りの現在の住所は、聚楽廻町と呼ばれています。大内裏町とか呼ばれても良さそうですが、平安京の地名は古過ぎるのでしょう。秀吉の作った聚楽第の方が地名として残っているようです。

 

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ここは、大宮中立売の交差点です。大内裏の一番東側に当たる位置です。この辺りに秀吉の聚楽第が建てられたそうです。写真の右端に写っている石碑に「大内裏及び聚楽第東濠跡」と書いてあります。

 

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市松模様の辺りが聚楽第のあった場所です。内裏に被っていますね。秀吉がここに聚楽第を建てるまでは、大内裏跡地は内野と呼ばれ、野っ原だったそうです。天子様のおられた所なので、恐れ多くて500年程開発されずに放置されてきたとのこと。平安京の権威は抜け殻になっても尚、秀吉という天下人が出てくるまでは保たれていたということを考えると、とてつもない大権力だったのでしょう。そして、秀吉の権力の大きさと自信の程が伺い知れる聚楽第の位置ですね。

 

一番最初の写真の石碑のある児童公園の名前は「内野公園」です。公園の名前に大内裏の面影が残っています。

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 内裏、豊楽院編に続く